2007年09月25日
倭国
弥生時代中期頃から日本列島の各地に政治勢力(筑紫、吉備、出雲、ヤマト、毛野など)が形成されていき、それら勢力の連合体を中国の諸王朝が倭国と称した。これに対応して、日本列島の政治勢力も対外的に倭国と自称するようになった。すなわち、倭国は対外的に用いるための呼称だったのである。
紀元前後、博多湾沿岸に所在したと見られる奴国が、後漢から倭奴国王に冊封され、金印(倭奴国王印)の賜与を受けており、当時は北部九州の勢力が倭国内の中心勢力であったと考えられている。
『後漢書』に「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」と「倭国王」の帥升が107年に生口を献じてきたとする記述があるが、これが中国史書における「倭国王」の初見である。このことから、1世紀末から2世紀初頭にかけて、倭国をある程度統一する政治勢力が生まれたする見解もある。
帥升以降、男子が倭国王位を継承していったが、2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた(→倭国大乱)。この大乱は、邪馬台に居住する女子の卑弥呼が倭国王に就くことで収まった。卑弥呼の次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の台与が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生末期の倭国は女子が王位に就くことが多かった。
台与以後、しばらく倭国による中国王朝への朝貢は途絶えていたが、4世紀後期ごろから東晋など南朝への朝貢が再び見られるようになり、この朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。この時期の倭国王(倭王)は、中国史書に名が見える者が5名おり、倭の五王と呼ばれている。倭の五王による中国への冊封要請遣使は、4世紀後期から倭国が朝鮮半島南部の伽耶諸国群へ資源・利権獲得のために介入しようとしたため、その地の冊封を受けて大義名分を得ようとしたものと考えられている。
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